原子間力顕微鏡を用いたナノバイオロジー

Seeing is Believing -ナノバイオロジーの確立に向けて

身の回りの現象を「観察」あるいは「可視化」することによって理解することは、我々の最も基本的な外界認識・外界理解の方法です。生物学において、顕微鏡はまさにこの「見ることで理解する」ための道具としての役割を果たし、様々な現象を解明してきました。十七世紀における光学顕微鏡の創成期には、「Cell Theory」を提唱したSchleiden (1838) とSchwann (1839)を始めとする多くの先駆者たちが試行錯誤を重ね、研究道具としてなくてはならないものに発展させてきました。特に、ここ数十年で目覚ましい発展を遂げた蛍光による顕微鏡法は、ますます発展して多彩なものとなっています。しかし蛍光顕微鏡には、観察に用いる光の波長に由来する解像度の制限があり、近年の超解像度顕微鏡でも実際の生体分子がはたらく現場を捉えるには多くの困難や制限を伴います。

 1920年から30年代にかけて開発された電子顕微鏡(EM: Electron Microscope)は、光学顕微鏡と比較して数百倍も良好な解像度を達成し、我々に「ナノの世界を見る」という新しい経験をもたらしました。しかし、その試料調製には多くの制限があり、試料の固定や真空での測定など、実際に生体分子がはたらいている環境とは程遠い状態での観察を余儀なくされます。この点を乗り越えるべく開発されたのが、走査型トンネル顕微鏡(STM: Scanning Tunneling Microscope)と、原子間力顕微鏡(AFM: Atomic Force Microscope)です。この全く新しいタイプの顕微鏡は、鋭利な針で試料表面をスキャンし、針と試料の物理的な相互作用によってそこにあるものの形を観察するというものです。

 AFMを生物試料に使おうという試みは、1980年代後半から始まっています。この顕微鏡の優れている点は、EMと同等の解像度をもちながら、その試料調製における制限はEMよりはるかに少ない点で、これによって生理的環境でナノメートルレベルの解像度で生体試料の観察を行うことができます。1988年にScience誌に報告されたAFMによるDNAの観察が、この顕微鏡を最初に生体分子に使用した例です。1990年代になると、AFMを用いてDNAの二重らせん構造を観察した報告も多く出るようになります。これらの報告で、1990年代後半あたりから、多くの生物学者がAFMを使うことを考えるようになりました。AFMは数ナノから数十ナノメートルの測定に強いことから、生体分子が生理的環境ではたらく現場を捉えるのにちょうど適した特性を持っており、X線結晶構造解析と蛍光顕微鏡のギャップを埋めるものとして期待されるようになります。当初その最大の欠点は、観察にかかる時間でした。一つの画像を取得するのに数十秒から数分の時間を要したため、機能分子がはたらく様子を直接観察することは不可能だったわけです。2001年、この欠点は金沢大学の安藤先生のグループにより、劇的に改善されました。一秒に数枚の画像が得られる「高速AFM」の登場により、現在では生体分子がはたらく現場を十分な時間分解能で捉えることが可能です。

 ここまで述べてきたナノメートルレベルでの構造解析に加えて、AFMはその探針を用いた物理的な力測定を行うこともできます。例えば細胞の弾性を測定する場合には、探針を細胞の上から徐々にアプローチし、細胞を押し込みます。この時に、針にどれくらいの力が加わったかをその反り具合から計算し、最終的に細胞の硬さをヤング率として求めることができます。この測定から、細胞膜と核膜はいずれも十分に柔軟性があってかなりの力を吸収できることや、細胞の硬さにはアクチン細胞骨格が大きく影響することなどが明らかにされています。また、かなり先のとがった(角度25°程度の)探針を用いて大きな力をかければ、細胞膜や核膜を貫通することができます。これらの細胞操作法を用いれば、一細胞レベルで特定の操作を行ったり、異なる環境で細胞の物理的性質がどのように変化するかを明らかにすることができます。この力測定は、分子レベルでも行うことができます。あらかじめ特定の物質を結合させた探針を用いることで、DNA‐タンパク質間やタンパク質‐タンパク質間の結合力を、ピコニュートンのレベルで物理的に測定することができます。これらの手法を組み合わせて近年開発された認識イメージング(TRECTM)を用いれば、AFM観察画像の中で特定の分子の存在を示すこともできます。この手法では、例えば抗体などを結合させた探針を用いてイメージングを行うことで、通常の高さ情報を基にした測定と、探針に付いた物質と試料の中の特定の物質との相互作用に由来する結合力の検出を同時に行い、AFM画像中に特定の物質をプロットすることができます。この技術は、これまでは見ているものが何であるかをその形から類推するしかなかったAFMにとって大きな進展であり、今後生体抽出試料などより複雑なものを解析していく上で力を発揮することが期待されます。